僕は、ただただ、首を振ることしかできなかったんだ。 「私、これ好きなんだ」
志津子さんはそう言うと、ごくごく自然な仕種で、ミニトマトを摘んだ。水を軽く切っただけのそれを、彼女はすぐに放り込む。
僕はと言うと……情けないことに、志津子さんをちらちらと横目で見ることしかできない。
志津子さんはしばらくの間、サラダボウルを見つめていた。銀のそれに写ったのは、真顔の――本当に何の表情も掴めない志津子さん。きっちりとルージュを塗った唇が、少し動いたかと思うと、彼女は誰に言うでもなく淡々と話し始めた。
前の亭主と離婚した後ね、急にトマトが好きになったの。ほんとうに、急に。前は別に好きでも嫌いでもなかったのにね。
志津子さんの声はむしろ明るい――この場の雰囲気にそぐわないほどに明るすぎるものだった。けれど、表情は少しも変わらない。
志津子さんは話を続ける。
食べる度に思うのは、いつも決まってトマトの嫌いな彼と、彼女のこと。あの人たちね、凄く食べ物の好みが似てるの。ドレッシングはしそのが一番で、トマトが大嫌いで。私がこんなの別に大したことないじゃない、って言うと、そんなまずいものどうして食べれるんだって。二人とも声揃えて言うの。ちょっとね、嫉妬したこともあったな。トマトが嫌いって話す時のあのひと、あの子のことしか見てなかったから。私のことなんておいてけぼりだったから。
私がね、一番好きだった人たち。うん……本当に大好きだったんだぁ。まさか別れが来るなんて思ってなかったくらい。毎日が楽しくて、一日が終わるのが早かった。
志津子さんはそこまで言うと、僕の方を向いた。じっと、ただただ僕を見つめた。僕は体を硬直させて、それから視線を逸らす。………たったそれだけのことしかできなかった。
志津子さんはくすり、と笑った。今日、初めて見る笑顔だった。
私が彼と離婚しようと思うって言ったときの彼女の顔、今でも覚えてる。てっきり喜ぶと思ってたのに、何だかひどく傷ついたみたいな顔、して。……それ以来、彼女とは会ってない。
「…………私の話はこれでおしまい。それで、何? 用事って」
志津子さんは今度は僕と丁度反対側に立っている夏川氏に話しかけた。
「うん、恵那に頼まれたんだけどね。志津子のところの扇風機が壊れたみたいだから、修理してやってくれって」
「そう」
志津子さんはごくごく淡々と、呟くように言った。それがたまらなかった。僕はただただ何度も何度も首を振ることしかできなかった。
畜生、畜生。どうして、志津子さんがこんな目に合わなくちゃならないんだ。
夏川氏は僕と志津子さんとを見比べ、ふっと諦めたような笑みを浮かべる。志津子さんは他人事のように言っていたけれど、僕は知っている。志津子さんの前の旦那はこの夏川氏で、ここに来るように頼んだ恵那さんこそが、その離婚の原因だということに。
僕はカッとなって、もう少しで叫ぼうとした時のことだった。
「だけど、壊れたのは君の方みたいだ」
夏川氏は、志津子さんを見据えてそう言った。
「何度も言うように、恵那は僕たちの子供だろ。どうして嫉妬する必要があったんだ。恨みったらしく、扇風機に愚痴ってる暇があったら、恵那を幼稚園まで迎えにいってやってくれよ!」
僕は、ただただ、首を振ることしかできなかったんだ。
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